2015年07月30日

黎明 第24章「教育」


前回のつづきで、黎明 第24章「教育」の抜粋です。

教育は、物事を正しく理解している人がそれに携ることで、初めて成り立つものですが、これまでに詳しく説明してきましたように、1990年代頃までの地球では、ほとんどの人達が正しくものを観ることのできない、自我意識に囚われている心の状態であることを、まず思い起こして下さい。このような状況の中では、人に何かを教えるという行為は、単に自分の偏見を相手に押し付けているだけで、教えられた方はもとより、教えてた本人も自分の迷いを深める作業をしているに過ぎません。なぜなら、人に何かを納得させようとする行為は、自分がそれを信じる為にやっていることだからです。

教育の現場では、教える為のマニュアルが色々と造られてきていますが、これらは皆、限られた経験をもとに、特定の状況でのみ通用した方法を概念化したものですから、様々な個性と背景を持つ生徒の、あらゆる状況に適応させようとすることは、土台無理な話なのです。
個々の人間としての表現は、魂の傾向性も、幽体の波動も、身体の構造もそれぞれ違っていますから、心で到達する理解であれ、身体で体得する技であれ、他人の得たものをそのまま持ってきても使い物になりません。もしそれが可能であったとすれば、地上に人間をたくさん創った意味はなかったことになってしまいます。

この本が読者の方々のそれぞれの必要に合せて、重層的な意味を持たせて書かれているように、普遍意識では、様々な背景を持つ生徒の銘々に価値を与えるような講義をすることが可能です。しかし教育がそれに至る以前の段階では、似通った傾向性を持つ生徒達を同じクラスに纏めて、それぞれの能力に見合った指導をすることはやむを得ません。ただこの方法を採る場合には、授業の難易度によってクラス間に差別を感じさせるような、誤った見方を決して造り出してはなりません。学習の価値はあくまでも、それぞれの生徒が現在の到達点からどれだけ進歩したかに置くべきで、他人との比較は何の意味もないことを、生徒は勿論、親や教師のひとりひとりが徹底して理解していなければなりません。

これからの時代には、意識の進化した子供達や、普遍意識を生まれたときから顕現しているような子供達も、それほど珍しい存在ではなくなってきますが、後者の場合には、自分の内側に絶対的な識別能力を備えていますから、視野の限られた個人意識と、様々な固定観念によって判断の制約されている大人が、彼等、彼女等を教え導くことは不可能ですし、またその必要もありません。
ただ現実問題としては、解脱していない大人が、そのような子供覚者を観分けることはできませんから、自分の理解できない表現をする子供の出会った時には、既成の概念で頭ごなしに否定するようなことはせずに、なぜ子供がそのような表現をするのかを深く考え、むしろ自分がそのことから学ぶように心懸けて、子供の内側に芽生えつつある普遍意識の神聖な表現を、不調和な波動を起こして妨げないようにすることが大切です。

この地球の変容の時代には、生まれたときから悟りを得ている子供達が増えてくるそうなので、自分も地球のアセンションをサポートできるよう頑張らねば!笑


以上で黎明セミナー 第24章「教育」 についての記事は終わりたいと思います。


関西でも10月11日(日)に大阪で「黎明セミナー」が開催されるようなのでお近くの方はいらしてみてはいかがでしょうか?こちらから申し込みできるようです。


posted by ウーロン at 16:54| Comment(0) | 記事
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